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いないゆめ2

またPこのでてこない夢を見た。
そこはなぜかアムステルダム。
自分はホテルのような下宿のような場所に財布ごと荷物を置いて
ライブかなにかに出かけようとしてた。
街中を一晩中さまよっても目的地にたどりつかない。
朝になって珈琲が飲みたくなり何軒かカフェをのぞき込んで
豆の量り売りをしてたアジア系の女性に日本語話せるかなど聞いて
コーヒーを頼もうとするんだけど、手元には日本円の小銭しかない。
両替してなくてとか言い訳して、呆れる顔の店の女性の脇に
黒い大っきな猫がいたのでだっこしていいか?と聞いてさせてもらったら
猫がワタシの顔をぺろぺろなめるのだ。
それでPこを思いだして泣いていた、というところで涙で目が覚めた。

やっぱり土曜はどこかでひきづっている曜日なんだな。
ちなみにアムステルダムに行ったことはない。

「神様、わたしは二度と飢えません」

…などといきなりどーした?!って感じだけど、二度と飢えたりしない、というのは『風と共に去りぬ』の映画だと休息前の第1部最後の場面のスカーレットのキメセリフだ。南北戦争の最中、逃れた場所からすべてを失い故郷タラの地に戻った彼女は空腹のあまり土に植えられたままの野菜を掘り起こして夢中でかぶりつく。そしてそんな自分が惨めでひとしきり泣いたあと、すっくと立ち上がり神に誓う、のだったと思う。ずいぶん前に見たきりなのでおぼろげな記憶しかないんだけど。でも、意を決して立ち上がるヴィヴィアン・リーの力強いまなざしはとても美しかった。そういや最近午前10時で上映していたのだったな、GWTW。

 なぜそんなことをふと思い出したかといえばもうほとんど習慣のようになってしまった土曜のウツで、部屋の掃除をしながらPこのことを思い出してべそべそ泣いていたときにふと思ったのだ。
 恥ずかしいのだけど、Pちの病院にかかっていた末期に同居人の前で大泣きした、というか泣き言をこぼしたことがある。毎日1万2万、多いときで3万以上とんでいく治療費に「もうお金がない」と。泣いているわたしをPちがベッドの上からじっと見ていたのを憶えている。Pちこが家計を楽にしてくれるためになにやら考えたなんてことは普通にありえないし、思いたくもない。でも、自分は「金がない」なんてPちの前でべそをかいた。弱音というかグチを吐いて大泣きしてしまったのだ。そのことは今でも心の底からものすごく後悔しているし、苦い想いはこの先も絶対に忘れられないと思う。
 命を預かってる以上、最善を尽くしたいし努力はし続けたい、そのためにも先立つものはとても大事だ。面倒を見るこちらが倒れないような健康も、それから経済力も。いろんな考え方はあるだろけれど、自分は、今は、堅くそう信じている。半年も経たずに変わるかもしれないけれど。
 だからPちへのわたしの約束は「もう二度とお金がないなんて泣いたりしない」こと。たかが猫一匹にあほらしいと思われるかもしれないけれど、それでも小さな誓いなのだ。だって、とりあえず今後、老後の生活のためにゃ2000万は必要らしいし。それにもし次に出会ってしまうようなことがあったとしたらもっと必要になるということだよ? まあ、今から2000万なんて宝くじに当たるよう神頼みでもしなきゃ無理だろうけど、モチベーションはなんだっていいじゃないか。めざせ、スカーレット(え?)。

 でも、もし次にペットと暮らすなら、どんな手を使ってでも絶対にペット保険には入るつもりです(苦笑)。

母方の受難その3

 再び母方の受難。1月の初出の続きがなんで「3」かといえば2月の休みを取っていた時期に伯母が亡くなったから。あの時期は自宅で鬱々としてはひっきりなしに電話してくる母の用足し要員で10日間ほど帰省するつもりで仕事の休みを取ったものの、結局母は1月末に入院。インフルエンザが蔓延中なので身内含む外部との接触は一切NGという病院の方針のため病室にほぼ軟禁状態になった。伯母が亡くなったのは入院直後のことだった。母の見舞いには行けないけれどやはり法事には帰った方がよかろうと準備していた矢先、帰省の前夜にPちこの様子が急変した。翌日から毎日、日中は病院に預けて静脈点滴の処置を受けたのだけど、同居人が引き受けてくれたとはいえPちのことが気が気ではなかったので、盛岡にはお通夜とお葬式の1泊2日だけしてあとの休みの間は東京の部屋で日中は仕事をし、夕方になるとPちを病院へ迎えに行くことを繰り返したのだった。そのあとも含めてとてもつらい時期だった。それはともかく……

 今日、母の長兄である伯父の訃報が届いた。冬場の入院は精神的なものも大きかったにせよ、ヘルニアが悪化して動けなくなってしまいそれなりのリハビリを受けて母は3月上旬に退院し、今は入院前というかまずくなる前とほぼ変わらない状態で自宅で過ごしているけれど、この半年の間に兄姉弟の3名を続いてなくしてしまったことになる。1月に急逝した叔父は比較的まだ若く早かったとはいえ、それぞれ施設に長いこと暮らしていた伯父伯母は年齢的にもしょうがなかったのかも、と思う反面、それでもほとんど続けざまに6人いた兄姉弟たちのうち自分だけが残って誰もいなくなってしまった母の心中を思うと心配になる。また帰った方がいいんだろうな、たぶん。

カメを救うゴミ袋?

 電車の入り口脇にある広告スペースによく掲載されてる学習塾の広告、というかその年の中学校入試問題のクイズをぼーっとしながら眺めている。ホームページに載っているらしい答えを合わせることまではしたことないし、漢字とかはまだしも簡単な算数でも応用問題なんかは最初からギブアップすることが大半だけど、時間つぶしだ。何百字以内で自分の意見をまとめましょう、なんてパターンは端っから面倒なのでへーで終わっているのだけど、今回はむむむ、と思った。
 というのは、昨今話題の海洋ゴミの問題でざっというと、ウミガメが海中に漂うゴミ袋をエサのクラゲと間違えて食べてしまって死んでしまうケースが最近問題になっているけれど、「ゴミ袋の利便性は失わずに」海のカメさんを助けるには「どういうビニール袋を作ればいいか」意見をのべよ、というような問題だった。
 最近キレやすいあたくしは「ばっかじゃねーの」とむっとした。なによりビニール袋使うことありきの問題だから、単純にエコバックを持てばいいとかゴミ袋を海に捨てなきゃいいとか、そういう基本のキのような単純なことを書いたんじゃ0点なんだろう。水につかったらエコな組織に分解されるような成分を開発してそれでビニール袋作るとか? それにしたってだいたい「ゴミ袋の利便性を失わず」ってのが、いかにも物質社会の人間のエゴ臭いじゃないか。
むきむきしながら初めてホームページにアクセスして答えを読みに行ってみたら

解答例
ウミガメが消化でき、水にはとけずに海水にだけとける物質を使ってビニール袋をつくる。
ビニール袋に、毒を持っている生物に似せた色や模様を印刷し、クラゲとまちがえないようにする。
など

解説
ウミガメを救う手段として、一般的には、海にビニール袋を流出させないための方法や、ビニール袋を使わないようにするための方法が検討されますが、この問題では、「どのようなビニール袋をつくればよいか」が問われています。したがって、仮に海に流出したとしても、ウミガメに被害が及ばないようにするためのビニール袋を考える必要があります。

ウミガメがクラゲとまちがえないためにどうすればよいか、ウミガメが食べてしまったとしても害がないようにするためにはどうすればよいか、など、方向性はいくつも考えられるでしょう。

また、「ビニール袋として通常使用できる便利さは失わないものとします」という条件があるため、普段の生活でビニール袋を使う場面を思い浮かべて、自分の考えたアイデアを実現したときに不具合が起こらないかどうかを検討する必要があります。


やっぱりね。
 出題したのは工業大学の付属の学校の問題だそうだから、そういう何かを開発しましょう系の考えをめぐらせることは大事なのかもしれないけれど、利便性やら理屈じゃなくてまず根本から断つみたいないちばん単純に作らなきゃいい、使わなきゃいいの選択も入れて転換した方がこの先みんな幸せなんじゃなかろうか。だってページの下の方にはこうあった。

「プラスチック汚染」は、まさに目標14「海洋と海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する」に向けて、第一線の科学者や研究者たちが取り組んでいる課題のひとつ。科学者と同じ目線で考えることを通して、「海洋汚染に関心を持ってほしい」というメッセージを感じることができます。


ならばへりくつごねずに作らない選択もありでいいじゃんと、最近機嫌の悪い、心の狭いあてくしは思ったのだった。

梅雨入り

 街かどであじさいが沢山の花をつけている様子が目に入るようになり、お天気アプリによればしばらく雨が続くらしいので、そろそろ本格的に近いんだろーなと思っていたら関東地方〜南東北あたりまで梅雨入りだそう。憂うつなじとじとシーズンの始まりだけど、とりあえず前の日に洗濯ひととおりしておいてよかった。

 世の中はなんの落ち度もない人々が突然傷つけられたり、加えて将来の不安がより暗澹たるものに思えたりするようなとんでもないことがまかり通ってしまいそうなクソみたいな話題ばかりが目について実に気が滅入る。後者についてはここまでさんざんやらかされて「よそよりマシそう」ってのはもう考えないほうがいい。

 去年の今ごろはPちの輸液レッスンでしょっちゅう病院に通っていたのだった。あの日はしとしと雨の降る朝で血液検査と心臓エコーをとるというので通院の途中に、向こう方面に住んでて駅に向かおうとしてた他社の若者くんと偶然会って立ち話をした。その時点ではまだ平和だった。病院が済んで一旦Pちを家に連れて帰り、昼過ぎに職場に着いてからツイッター開いて初めてTさんの訃報を知ったのだった。すごく悲しかった。うちの職場だけじゃないだろうけど、みんなTさんとのお仕事が大好きだった。本当に。今でも「あ、Tでーす」って電話がかかってきたり、メールを出せばいつものように絶対パソコンの前で張ってたでしょってぐらいの即レスが戻って来そうな気がしてる。もう叶わないって分かってはいても、もういらっしゃらないことが未だに信じられないのだ。
 ねえ、Tさん、うちのPちこもそっちへ行ったけど会えましたか?ってネコの話したかは憶えてないけど。もし会えたなら、悪いけどあたしがそっちに行くまで時々でいいから面倒見てやってくれませんか。うちのPち、いい子だし、ヨーグルトも好きだから一緒に食べられますよ。ただしPちが好きなのはブルガリアじゃなくて、小岩井生乳ヨーグルトなんですけど。