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2014.03.20 (Thu)

ズーイorゾーイー

 ここのところ口を開けば、というかここに何か書き込もうとすれば仕事だ、忙しいーばっかりで、面白くもなんともないことでまったく申し訳ないんですが、ストレス解消法といえば、そりゃ買い物。消費税アップ前にぜひ買っておきましょう!なんて口車にはのらないようにふふん、と思ってたのはいつのことやら、もーいったん楽●やら密林に行ってしまうと物欲がとまらなくなるので極力近づかないようにしていますが、これが近所のスーパーとかでかけたらでかけたであれこれバカスカ買いこんじゃ、これひとりでどーやって食うんだ?とわが身のアホさを悔やむことしきり。来週にはようやく同居人がお勤めを終えて帰ってくるので、そのまえに大量の段ボウルを廃棄せねば(爆)

さて、先日村上春樹氏の新訳版「フラニーとズーイ」を近所の本屋さんで買いました。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 なんども言ってるように発刊されればそれだけで社会現象巻き起こる~みたいな村上さんの新刊小説には、あまり興味のない自分ですが、エッセイとかとりわけ翻訳本なんかはついついそそくさと入手してしまいます。村上さんの新訳版というのはギャツビーやらチャンドラー一連ものにしても、清水俊二さんや野崎孝さんの訳本に慣れて思い入れ持って読んできたほうとしては、正直手放しで歓迎しているわけじゃないなくて、今回新聞の宣伝になってた「こんなにおもしろい話だったのか」みたいなコピーもなんかしつれーじゃん?と思わないでもなく、でもやっぱりとりあえず買ってしまった次第。

 まだ本編を読む時間が取れないのだけれど、いつものように村上さんのあとがきだけは真っ先に読んでしまったんだけど、その中に今回の改題についてちょっと触れてあった。「Zooey」という名前をどう発音するかいろんなアメリカ人に取材したら「ゾーイー」と「ズーイ」それぞれ読み方はあったけど「ズーイ」のほうが若干多かったのと、ドキュメンタリー映画の中で「ズーイ」という発音で統一されていたことと、村上さん自身の語感の好みで「ズーイ」としたとのこと。ふーん。でもレニー・クラヴィッツの曲の中じゃ「ゾーイ」って歌ってるじゃん、とか思ったんだけど、よくみたら向こうの綴りは「Zoë」なのでまるで別物だったのだけど、固有名の読みって当人がどう読ませたいかだと思うので、本当のところはサリンジャー当人しかわからないのじゃなかろうかとか思ったり。

 なんてことをちらりと考えていたら、このあいだ見たLevon Helmのドキュメンタリーの中で、ザ・バンドがエド・サリバン・ショーにたぶん初めて出演した際の映像で、エド・サリバンが「君の名前なんと呼べばいいんだ?」と確認してから「リヴォン」と紹介してる場面があって、綴りからだとはっきりしない時にはやっぱ本人に聞くもんだよねと思ったところだった。
 でもって、そこからそういえば最近じゃドイツ映画でもMichaelを普通のドイツ語読みならミヒャエルだけど、マイケルと英語風に呼ばせてることもよくあるもんなあと、あれこれとぐるぐる考えてしまったのでした。

と、とりとめないことを。



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2010.12.22 (Wed)

翻訳の寿命2

なんだか昨日中途半端なまんまアップしてしまって据わりが悪いので続き。

 エッセイ「翻訳の寿命は、いったいどれぐらいのものなのだろう」のなかで村上さんは「月曜日~」に収録する旧訳作品の検証改訳したポイントは1)明らかなミスや誤訳、2)翻訳に対する経験値、自分の姿勢の変化、3)自身を含めた日本語文体の変化 をあげていて中でも日本語文体の変化によって直すところが多かったとしています。彼の場合は25年の翻訳活動のキャリアがあってそれに基づき照らし合わせて見直すと翻訳は多かれ少なかれ劣化するもので、建物でいう改築だったり新築を余儀なくされるものとのこと。

 字幕の場合は一人の翻訳者が20年以上も前に訳した自分の字幕をもう1回見直すことになるというケースは、うちの職場ではたまにあるけれど、一般にはそんなに多くはないと思う(たぶん今どきのメジャーな映画なら公開になって半年もすればビデオなりDVDがでてそこで字幕の修正かけるだろうし、その再販やらテレビ放映ごとに同じ翻訳者が何度も自分の訳に手を入れることはあんまりないんじゃないかと思う)し、文芸の書き言葉と話し言葉では言葉の寿命も格段に違うだろうから、話の基本としては同じ土俵には乗せにくいかもしれないけれど、あえて乗せるとするならば、われわれが字幕のハウツー習った時には後世観た時に違和感を感じるようなはやり言葉は使うべきじゃないとか、半永続性みたいなものを考えるように教わった記憶があるけれどそれって無謀な話かもなーと今更ながら思った次第。
それについてはまたゆっくり別の機会に。


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2010.03.23 (Tue)

『ライ麦畑』寄り道

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)  翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)  ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 先日の読書計画からとりあえず半分まで読み進めて、途中でなんかそればっかりになるのもーと寄り道して別なものを読んでるので(…とはいっても翻訳夜話の1冊目と柴田さん初のエッセイというあれなのでそんなに離れちゃいないんだけど)忘れないうちに覚書だけ。
 実いうと『ライ麦畑~』はこの年になるまでまともに読んだことありませんでした。本にまつわる逸話、サリンジャーの話やら一ジョンの暗殺、レーガン暗殺未遂の犯人の逸話とかもろもろなどの記事を目にすることはあっても本体自体はスルーのまんま。それでもずいぶん前から持ってたぐらいだからいつかちゃんと読まなきゃ的意識はずっとあったんだろうけど、ずっと後回しになっていた。もっともサガンの『悲しみよ、こんにちは』なんかも、これこそこないだ初めて買って読んでみたので、そんな誰でも一度は通る道みたいな読むべき名著といわれているようなベストセラーなんかは読んでなかったりするのである。自分の商売にしてはあるまじきかも知れません。。すんません。

 で、今回村上さんの訳の『キャッチャー』から読んでみて最初のうちは口語体の本文がちょっと読みにくいなあと思ってた。でも慣れたら、作品の持ってるテンポとしてそんなには気にならなくなった。
 翻訳夜話2を読んだら、村上さんがキャッチャーの訳作業に入ったのは『海辺のカフカ』のあとだったというので、「ああーどおりでー」と思った。どこか似てるのよね、雰囲気が。なんていってみても自分が最後まで通して読んだことのある村上さんの小説はあれだけなので、ほかのを読んでもそう思うのかもしれないしどうかはわからん。以前に書いたような気がするけれど、わたし村上さんの小説の「青さ」みたいなところは実はあまり得意ではなかったりするので、彼の手がけたものは訳書とかエッセイものばかり読んでいる。かといって、じゃそんな雰囲気を感じる『キャッチャー』がやっぱり違和感があったのかといえばそうでもなかった。
 「青い」といえば『悲しみよ、こんにちは』だってそういう部類に入るだろうし、ともにブルジョワのお坊ちゃんとお嬢ちゃんの主人公の悩み具合の男女差じゃないけどなんとなく似てるところがないわけでもない。どちらが読み物として没頭できたかといえば『悲しみよ』のほうかもしれないけど、『キャッチャー』のほうが根深いというかやっぱりそれなりの年頃のころに読んでいたならもっと芯に来てたのかもしれない。常にいろんなこと、人にむかついてるくせに、(だから)さびしんぼみたいな、心当たりのあるような、懐かしいともちょっと違うんだけど微妙に近い、年取ったからって完全に消えるわけじゃない感じの何かが、「そうなのかなあ」っていまさら思った次第。うまくいえないけども。

 翻訳夜話2では訳書に掲載されるはずだった村上さんの訳者あとがきほか、キャッチャーを訳し終えての村上さんと柴田さんのサリンジャー談義が2回分ほど入ってて、本編読了後に読んだらなるほどねーと思う解釈なり訳文作りのもろもろ連発ではあったけど、なかでもそーすか!?と自分的にショッキングだったのは言葉の選択の話。いくら新訳だからといってあまりそのときに流行ってる口語は鮮度の落ちも早いから使えないっていうのはもちろん同感ですけども、村上さんいわく2003年の時点にして「イカす」はもうきびしいんだそうで。…めっちゃ使ってるんですけど、いまだ訳文に。イケる、イケてるよりはもちがいいような気がするんだけど。

 と週末あたりに野崎さんライ麦に入ろうかと思ってるけど、そういえば、いつの間にか白水Uブックスのカバーからネコ?の顔みたいなイラストなくなってますね。なんかさみしい空間。あれも契約ごとで外さなきゃいけなかったんだろうか。

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2007.01.17 (Wed)

ギャツビー読了

グレート・ギャツビー

 予定より大幅に遅れましたが「グレート・ギャツビー」を読みました。本を読むより先にレッドフォード出演の映画を観ていたので(かなり前だけど)いちいちその場面を思い出しつつ文章による描写を堪能。いつものごとく本編よりもあとがきから読んでしまったのもあるんですけれど、いつもの村上さんの翻訳本よりも文体が小説に近いような気はします。ひと夏に起こるうわーっと華開いて幻のようにまぼろしのようにふうっと消える夢のような感覚は、自分が感じるところの村上さんの「青さ」っぽいところをくすぐるのは何となく分かるような気がしたし、ほんとは60になったら訳そうと思ってたという計画の前倒しも分かるような気がしました。これまで出回っていた野崎孝さんの版も読みたいなと思ったし、村上さんの小説と比較して書くのも比較の対象少なすぎるのでもうちょっと読んだらまた「ギャツビー」に戻って読んで考えられたらよいなあ。映画ももう1回みたいです。

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2006.08.26 (Sat)

翻訳の寿命

月曜日は最悪だとみんなは言うけれど

 村上春樹さんの本は自分の場合は翻訳本を読むことの方が多いです。とはいえ彼の翻訳本を読む時にどこから一番最初に読むかって、それはご本人の訳者あとがきというか後付エッセイだったりする。この間読んだ短編翻訳集「月曜日は最悪だとみんないうけれど」の後付エッセイ「翻訳の寿命はいったいどれくらいのものなのだろう」は考えさせられました。8本収められている短編のうちの7本が今回の「月曜日~」を翻訳ライブラリーシリーズに入れるに当たって改訳されているわけですが、巻末のエッセイの中で村上さんは自身の小説を発行から年月が経ったところで書き直したいとは思わないけれど、オリジナルの小説をあくまでも日本語に置き換えていく作業としての翻訳には時代と共にいろんな意味での劣化が伴い、その時代ごとの読み手にとっての便宜性であったり互換性を重視するべき、と語っているところにそりゃそうだよな、と思ったのでした。翻訳はあくまでもオリジナルの小説を読者に伝えるための手段であって、それ以上の何かを主張するものではないということであり、それに則して考えてみると「名訳」の定義がかなり微妙なものになるということにも納得。

 それって小説の文芸翻訳だけでなく当然字幕にも言えることだと思うけど、でも往年の名画なんかでは「君の瞳に乾杯」やら「明日は明日の風が吹く」とかその映画が再映されるとかテレビで放映されたりするたびに何となく目にしないと寂しかったり味気なかったりする気もするので杓子定規ではかれないかもしれない。清水俊二さんなんかはいみじくも著書の中で字幕は翻訳にあらずとおっしゃってるし(岡枝センセは翻訳に決まってるだろ、と頑としてゆずりませんでしたけど)、それってじゃー超訳確信犯だったのか?といえば、かといって清水さんの字幕って決して自己主張の激しい華美な字幕とは思わないですし。吹き替え訳にあわせて演出ばしばしいれることもある今どきの字幕のほうがよっぽど手が込んでて、いいのかね?って思うこともあるし、それが時代のニーズかといわれればそうは思わないので、翻訳の基本に立ち返って考えることも必要じゃないかとも思ったりする。
 と話は大脱線したけれど「月曜日~」の短編もエッセイ、取材記事、小説と盛りだくさんで楽しく、電車の友にもちょうどよかったのでした。

…なんて途中眠くなったあまりに、おざなりな話でやめちゃったのでまた続きます。

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20:18  |  本とか絵とか

2006.01.12 (Thu)

やっと

 「The Da Vinci Code」を読み終わりました。読み始めたのはいつだっけ。去年の冬の洋書バーゲンで買ったからちょうど1年ぐらい前の話?ゲゲゲ。と途中の記憶が失せているのだけれどお話のテンポ・展開はおおーそうきたかと読み入ってしまいました。で、結局?というのがなんか釈然としないんですけれど、たぶんそれはわたしが読解力ないからなんでしょう。いちいち単語も調べてないし。もうちょっと時間ができたらもう1回読んでみよー、映画の後になるかもしれないけれど。

 昨日は職場関係の新年会パーティでお疲れモード。といいつつ今年は仕事が終わらなくてあんまり参加してないんだけれどもお疲れ度がいっしょなのはなぜ???

 今日は今年初のフィルムセンターお出かけでサイレント映画を鑑賞。やっぱサイレントは楽しくてよいっすね。

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23:12  |  本とか絵とか

2005.06.04 (Sat)

 字幕翻訳者でわたしが最初に翻訳学校で字幕のノウハウを教わった岡枝慎二さんが去る5月23日にお亡くなりになっていたそうです。遺言で訃報は一切業界には知らせないように、何もしないようにとあったとのことで、おそらく伝わってきたのはもうとりあえず初七日であったりある程度の法事が一段落ついたからなのかなと推測します。「何もするな」と残されたというのが武田信玄じゃあるまいしとも思うけれど、なんだか岡枝先生らしいような気もして。

 岡枝さんはたぶん日本語字幕翻訳の第2世代、というか清水俊二さんら創生期のちょっとあとぐらいの世代では誰よりも先に字幕翻訳への門戸を開いて、後継者を育てることに熱心だった方といえるでしょう。そのおかげで多くの人たちが今も翻訳者であったり、制作会社で活躍しています。
 先生の字幕翻訳は必要最低限の情報で作品を理解させるというか、時にはそこまで削ってもいいのかな?と驚くこともないわけではなかったけれど、ほんとうにすっきり読みやすい字幕でわたしは好きでした。信条とされていたあくまでも字幕は作品を妨げるものであってはならない、見た後に字幕がついていたことすら感じさせないような「翻訳」でなければいけないということは、自分がさまざまな映画に多いろんな形で接するようになってより強く同感するようになりました。作品以下であるのは言わずもがな、それ以上であってはいけない、微妙なバランスが必要なのです。
 先生の訳でよく知られているのはなんと言っても「スター・ウォーズ」のフォースを「理力」と訳されたこと。手近なところに英語の転がっている今の状況であればそのままフォースとするのは正しいことなのかもしれないけれど、それを置き換え可能な日本語にしたことはすごいことだと思うし、やはり「ブレードランナー」。ルトガー・ハウアー扮するレプリカントの知的さ、悲しさを感じさせる訳が本当にすばらしかった。美しい日本語の使い手でいらっしゃいました。

 先生に教えていただいた多くのことの中でもよく憶えているのは「字幕はダイヤモンドが1つごろんと光っている首飾りよりも、均整のとれた、できればパールのネックレスを目指してつくりなさい」ということ。600も1000もセリフがあればどんな翻訳者だってひとつぐらいはきらめく決めぜりふを作れるのは当たり前だけど、それが1個だけ突出することなくきちんと均整のとれたものを作るほうが字幕としては美しいということですね。これってば特に字幕に限って言えることではないだろうけれど。

 手がけられた作品や、実際の授業であったり、その後の機会を頂いたりしたこともふくめて、先生なしでは今の自分はないです。ニコニコ穏やかな物腰からはちょっと想像もできなかったけど、かつてその7カ国語を覚えるきっかけになったという大病をされる前にはいわゆる「モボ」で、よく奥様とダンスホールで踊りを踊ってらしたという先生。三毛ネコの(たしか)ルルちゃんを溺愛してましたっけ。筆まめで近況報告のはがきを出すとすぐお返事もくださいましたよね。本当にありがとうございました。どうぞ空の上から不肖の弟子を見守ってください。
テトラのおばちゃんに続いての訃報が寂しいです。

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23:29  |  ヒビつらつら
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