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翻訳の寿命

月曜日は最悪だとみんなは言うけれど

 村上春樹さんの本は自分の場合は翻訳本を読むことの方が多いです。とはいえ彼の翻訳本を読む時にどこから一番最初に読むかって、それはご本人の訳者あとがきというか後付エッセイだったりする。この間読んだ短編翻訳集「月曜日は最悪だとみんないうけれど」の後付エッセイ「翻訳の寿命はいったいどれくらいのものなのだろう」は考えさせられました。8本収められている短編のうちの7本が今回の「月曜日~」を翻訳ライブラリーシリーズに入れるに当たって改訳されているわけですが、巻末のエッセイの中で村上さんは自身の小説を発行から年月が経ったところで書き直したいとは思わないけれど、オリジナルの小説をあくまでも日本語に置き換えていく作業としての翻訳には時代と共にいろんな意味での劣化が伴い、その時代ごとの読み手にとっての便宜性であったり互換性を重視するべき、と語っているところにそりゃそうだよな、と思ったのでした。翻訳はあくまでもオリジナルの小説を読者に伝えるための手段であって、それ以上の何かを主張するものではないということであり、それに則して考えてみると「名訳」の定義がかなり微妙なものになるということにも納得。

 それって小説の文芸翻訳だけでなく当然字幕にも言えることだと思うけど、でも往年の名画なんかでは「君の瞳に乾杯」やら「明日は明日の風が吹く」とかその映画が再映されるとかテレビで放映されたりするたびに何となく目にしないと寂しかったり味気なかったりする気もするので杓子定規ではかれないかもしれない。清水俊二さんなんかはいみじくも著書の中で字幕は翻訳にあらずとおっしゃってるし(岡枝センセは翻訳に決まってるだろ、と頑としてゆずりませんでしたけど)、それってじゃー超訳確信犯だったのか?といえば、かといって清水さんの字幕って決して自己主張の激しい華美な字幕とは思わないですし。吹き替え訳にあわせて演出ばしばしいれることもある今どきの字幕のほうがよっぽど手が込んでて、いいのかね?って思うこともあるし、それが時代のニーズかといわれればそうは思わないので、翻訳の基本に立ち返って考えることも必要じゃないかとも思ったりする。
 と話は大脱線したけれど「月曜日~」の短編もエッセイ、取材記事、小説と盛りだくさんで楽しく、電車の友にもちょうどよかったのでした。

…なんて途中眠くなったあまりに、おざなりな話でやめちゃったのでまた続きます。
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